Last Updated on 2023年10月24日 by side8
宗像市「大島」、福岡市近隣の島の中では一番大きな島。中津宮には宗像三女神のうち「湍津姫神(たぎつひめのかみ)」(古事記では「多岐都比売命(たきつひめのみこと、またの名を田寸津比売命(たきつひめのみこと)」)が祀られている。
福岡市内在住であれば知らない人はいないであろう「宗像大社」、海上・交通安全の神として知られている。御祭神は天照大神の三柱の御子神「宗像三女神」。それぞれ沖ノ島「沖津宮」、大島「中津宮」、田島(本土)「中津宮」に祀られていて、三宮を総称して「宗像大社」と呼ぶ。
沖津宮(おきつぐう、沖ノ島)
- 日本書紀 : 田心姫神(たごりひめのかみ)
「古事記」では多紀理毘売命(たきりびめ) またの名を奥津島比売命(おきつしまひめ)。「日本書紀」では田心姫(たごりひめ)、田霧姫(たきりひめ)と表記される。「古事記」では別名を奥津島比売命(おきつしまひめのみこと)とされているが、「日本書紀」第三の一書では市杵嶋姫(市寸島比売・いちきしまひめ)の別名としている。
中津宮(なかつぐう、大島)
- 日本書紀 : 湍津姫神(たぎつひめのかみ)
「古事記」では多岐都比売命(たきつひめのみこと、またの名を田寸津比売命(たきつひめのみこと)。「日本書紀」では「湍津姫命(たぎつひめのみこと)」
辺津宮(へつぐう、宗像市田島)
- 日本書紀 : 市杵島姫神(いちきしまひめのかみ)
「古事記」では市寸島比売命(いちきしまひめのみこと)。またの名を狭依毘売命(さよりびめのみこと)。「日本書紀」においては、本文では3番目に、第二の一書では最初に生まれたとしており、第三の一書では、最初に生まれた瀛津嶋姫(おきつしまびめ)の別名が市杵嶋姫であるとしている。
※ 化生した順番やどの宮に祀られるかは、「記紀」で異同がある。宗像大社は「日本書紀」。
「記紀」である「古事記」と「日本書紀」は「似て非なる」という前提を持たないと混乱する。どちらが正しいかというより、内政か外交等か、目的によって物語が代わり、柱の名前も違ってくる、それぞれを受け入れる柔軟性がないと迷う。
– 宗像三女神の成り立ち(現代語古事記 神々の物語 竹田恒泰参照) –
高天原(たかまのはら)に成った最初の独神が「天之御中主神(あまのみなかぬしのかみ)」。次に高御産巣日神(たかみむすひのかみ)、神産巣日神(かみむすひのかみ)が成り、造化の三神が現れる。
国土が形成されて海に浮かぶくらげのようになると更に独神の二柱が現れ、これら五柱の神を天津神の中でも特別な存在として「別天津神(ことあまつかみ)」と呼ぶ。
別天津神の次に現れた十二柱七代(ななよ)の神を神世七代(かみよのななよ)と呼ぶ。最後に成った七代が伊邪那岐神(いざなきのかみ)と伊邪那美神(いざなみのかみ)
※ 最初の二代は一柱で一代(ひとよ)、三代からは二柱で一代と数える。
天つ神は七代に「この漂っている国を修め理(つく)り固め成せ」と命じ、天の沼矛(ぬぼこ)を賜う。
伊邪那岐神(いざなきのかみ)と伊邪那美神(いざなみのかみ)は、天空に浮いている天の浮き橋に立って矛で海を掻き鳴らし、引き上げた矛の先から海水がしたたり落ち、塩が固まって島が出来た。これが淤能碁呂島(おのごろしま)。その後、二柱はこの島を拠点に次々と島を生む。
淤能碁呂島(おのごろしま)に天之御柱(あまのみはしら)を立て、廻り逢って美斗能麻具波比(みとのまぐわい)を交わし、八つの国(大八島)を生んだ(国生み)。次に、大八島に住むべき神々を生む。
※ 伊邪那岐神と伊邪那美神の二柱の神が共に生んだ島は、十四(とおあまりよつ)。生んだ神は三十五柱(みそあまりいつはしら)。水蛭子と淡島は子の数に入れない。
ところが、伊邪那美神は火の神である火之迦具土神(ひのかぐつちのかみ)が生まれるとき、は御陰(みほと、女性器)に深刻な火傷を負う。そして伊邪那美神は神避(かむさか、神が亡くなること)る。
大分端折るが、伊邪那岐神はこの後亡き伊邪那美神を追って黄泉国へ出掛け、再会は叶ったが。黄泉国の食べ物を食べた伊邪那美神はこの世に戻れず、「黄泉の神々と相談して参りますので、その間、決して私を見ないと約束して下さい」と約束を交わす。
しかし、伊邪那岐神は約束を破り、腐敗して蛆にまみれた、変わり果てた姿の伊邪那美神を見てしまう。伊邪那美神は「私に恥をかかせたな」と言い許売(よもつしこめ)という黄泉国の恐ろしい醜女(しこめ)に後を追わせた。
伊邪那岐神はようやく黄泉国と現実世界の境にあたる黄泉比良坂(よもつひらさか)に差し掛かり、そこに一本の桃の木を見つる。桃の実を三投げ付けると、悪霊達は勢いを失い退散した。
最後に、伊邪那美神が追って来ると。伊邪那岐神は、千引(ちびき)の岩で黄泉比良坂(よもつひらさか)を塞いだ。岩石は悪霊邪気の侵入を防ぐものと信じられている。
伊邪那岐神と伊邪那美神は、千引の岩を挟んで向き合った。伊邪那岐神が夫婦離別の呪文「事戸(ことど)」を述べると、伊邪那美神は「愛しき夫がそのようにするのであれば、あなたの国の人々を一日千人絞め殺しましょう」と言い放った。伊邪那岐神は「愛しき妻がそのようにするのであれば、私は一日に千五百の産屋(うぶや)を建てよう」と返し、二柱の神は決別する。現世では一日に必ず千人が死に、千五百人が生まれることに。これが寿命の始まり。
黄泉国から帰った伊邪那岐神は日向の橘小門の阿波岐原(あわぎはら、所在未詳)へ出掛け、禊祓(みそぎばらい)を行った。伊邪那岐神は御身に付けていたものを外し、この時に多くの神が成った。
左目を洗った時に成ったのが「天照大御神(あまてらすおおみかみ)」。右目を洗った時に成ったのが月の神「月読命(つくよみのみこと) 」。鼻を洗って成ったのが建速須佐男命(たけはやすさのおのみこと) 。
※ 八十禍津日神(やそまがつひのかみ)から建速須佐男命(たけはやすさのおのみこと)までの十四柱の神は、御身をおすすぎになったことで生まれた神。
伊邪那岐神は大変喜び「自分は子をたくさん生んできたが、その果てに三柱の貴い子(三貴子(みはしらのうずのみこ))を得た」と仰せ、自らがつけていた首飾りを天照大御神(あまてらすおおみかみ)に賜い、天照大御神(あまてらすおおみかみ)には高天原を知らせ(治め)、月読命(つくよみのみこと)には夜之食国(よるのおすくに、夜の世界)を知らすよう、建速須佐男命(たけはやすさのおのみこと)には海原を知らせよと命じた。
しかし、建速須佐男命(たけはやすさのおのみこと)は国を治めず、泣きわめいてばかりいた。伊邪那岐神が「どうして国を治めずに泣いてばかりいるのか」と尋ねると、須佐之男命(すさのおのみこと)は「私は亡き母の国の根之堅州国(ねのかたすくに)に参りたいのです。だから泣いているのです」と答えた。須佐之男命(すさのおのみこと)は伊邪那美神を「母」と思っていた。伊邪那岐神は怒り「ならばおまえはこの国には住んではいけない」と須佐之男命(すさのおのみこと)を追放する。
この辺りもかなり割愛するので、古事記を知らない方は大筋でもいいから調べてみると旅の面白味が増す。
追放された須佐之男命は、母と慕う伊邪那美神がいる黄泉国へ行くことにする。高天原へ上り、天照大御神に報告することにした。須佐之男命は心が荒ぶっていたので、天に向かうと地はことごとく揺れ動いた。天照大御神はその異様な事態に驚き武装して須佐之男命を迎える。
この時天の安の河を挟んで対峙した二柱の神は「誓約(うけい)を行うことになる。始めに天照大御神が、須佐之男命が帯びていた十拳剣(とつかのつるぎ)を手に取って、三段に打ち折り、勾玉をゆらゆらと揺らしながら天之真名井(あまのまない、高天原にある神聖な水を汲む井戸)の水ですすぎ、噛みに噛んで、吹き出した息の霧に成った神の名は多紀理毘売命(たきりびめのみこと)、またの名は奥津島比売命(おきつしまひめのみこと)。続けて成ったのは市寸島比売命(いちきしまひめのみこと)。またの名を狭依毘売命(さよりびめのみこと)、そして次に成ったのは多岐都比売命(たきつひめのみこと、田寸津比売命(たきつひめのみこと))。こうして須佐之男命の剣からは三柱の神が成った。
これが宗像三女神の大雑把な成り立ち。
大筋としては間違ってないと思うが、説明不足なので、誤解の無い様一度「古事記」や「日本書紀」を調べて貰いたい。
本土宗像市田島の「沖津宮」や、大島の「辺津宮」は参拝可能だが、沖ノ島「沖津宮」は神職以外は渡島できず、一般の立ち入りは禁止されている。島そのものが御神体。平成29年(2017)までは沖ノ島現地大祭の際、抽選で選ばれた一般人男性(女人禁制)の上陸が許可されたが、世界遺産登録を機に、一般上陸は全面禁止となる。
何年連続で応募したかは忘れたが、残念ながら最後の年も当選出来なかった。
次は宿泊する。